「いろいろTV」はいろいろ株式会社代表の青木が気になる人に、いろいろなおはなしをお聞きするオンライン番組です。
第55回目は、ゲストに歌謡曲BARスポットライトオーナーの安東暢昭氏をお迎えして、歌謡曲BARの成り立ちや想い、そしてコミュニティづくりや次の世代に受け継ぐことなど、いろいろおはなしをお聞きしました!
目次
アンチカラオケと「あの頃」の基礎教養としての歌謡曲



歌謡曲バースポットライト代表取締役の安東と申します。
青木さんとは出身小学校が一緒です。1968年生まれの58歳なので、ちょうど10歳違いですね。今、私も参画している「昭和びと秘密基地」という活動があるのですが、そこに青木さんがジョインされました。それでお会いしていろいろと話したり、お酒を飲んで盛り上がったりしていたら、「小学校の後輩やん」ということで、今日の運びとなりました。
何でも聞いていただければと思います。思ったことは何でも言っていきたいと思います。


中学はどこだったんですか?


あ、中学から附設か。頭いいけんね。
東花畑小学校の誇りですよ。




「スポットライト」というお店は昭和歌謡レコードバーです。
カラオケバーとかってもうたくさんあるじゃないですか?
でも僕は、カラオケが大嫌いなんですよ。サラリーマンの20代の頃の経験が原因です。
30数年前のことですが、当時、カラオケボックスが流行り始めて、みんなこぞってカラオケボックスに行きました。そこでは「先輩が歌っていたら聞け」とか、「上司が歌っていたら手拍子しろ」とか、「喋るな」とか、ものすごくたくさん「お作法」がありました。
僕にとってのカラオケボックスは、半プライベートとしていろいろな話をしている中で、強制圧力が働く場の典型でした。
それに、人前で歌うのも意外とシャイなので嫌でした。「若いんだから歌え」と歌を強制される。歌い終わって人と話していたら「お前、先輩が歌っているんだから手拍子しろ」と強制される。それが嫌で、アンチカラオケというコンセプトを掲げました。
とはいえ僕は歌が大好きで、レコードを聞くのも好きで、趣味で20代からDJもやっていたました。だから、ちゃんと歌を聞くお店をやりたいと思い、始めたのが昭和歌謡レコードバースポットライトです。


お店は約20年前に開店したのですが、当時はまだネットのオークション等もあまり普及していなかったので、足で中古レコード屋をまわって集めました。

僕は以前はリクルートという会社にいました。ゼクシィというブライダル情報誌の統括のような仕事をしていて、北海道から鹿児島まで出張がありました。
欲しい銘柄を全てリストにし、出張の前に地元の中古レコード屋を下調べしては、もうあちこちの中古レコード屋を回って「これないか、あれないか」と探しまわりました。


盤の状態にもよりますが、やはりクリーニングしないといけません。

歌謡曲のレコードは、今でこそ結構人気で、高いものは当時の十倍ぐらいの値段になっています。
ですが、買い集めていた当時は歌謡曲のレコードはゴミのような扱いでした。
だから中古レコード屋のマスターや、レコード集めに協力してくれた方に「安東さん、こんなゴミみたいなの集めてどうするの?それを聞かせる店をやるとかって、そんなことを言うやつはお前が初めてだよ」と言われていました。
歌謡曲のレコードを集めてそれを流す店というのは、20年前は皆無に等しかったです。


僕は今58歳で、70年代〜80年代の歌謡曲で育ってきました。
それこそジュリー、ピンクレディー、百恵ちゃんから始まり、聖子、明菜、たのきんトリオ、吉川晃司、チェッカーズなどですね。あの辺りを聞いて育っているので、もはや好きとか嫌いとかの次元ではないのです。
「好きだから聞く」ということではなくて、もう、「聞いてるのが当たり前」。
その時代に青春時代を過ごした人は、知っていないと友達との話もできないくらいでした。我々にとっての歌謡曲や流行り歌というのは基礎教養です。
僕は歌謡曲好きが高じて店をやったのではなく、同世代が集まる社交場を作りたくて、そのフックとして、ツールとして歌謡曲に注目しました。
同世代の「ゴキブリホイホイ」としてのバー


ゴキブリホイホイみたいなものですよ(笑)

僕は同世代の人たちを集めたかったので、そのためのフックとして、何が一番機能するかを考えました。
我々が基礎教養として聞いていた流行り歌のレコードを集めれば、ゴキブリホイホイのように同世代が集まって、昔話をするとか、酒を飲みながら見知らぬ人とも友達になるとか、そういう社交場が作れるのではないかと思いました。



お店のメインターゲットでもあるのですが、昭和40年代生まれ、昭和49年生まれですね。上は昭和30年ぐらいからですね。


そうです。
元々スポットライトがターゲットとしていた層では、その中の一番若手が開店から20年経つと、もう50代になっています。
そして、本来の客層はもう少し上なので、60代がメインになっています。


いや、これがね、やはり60歳を過ぎると急激に来なくなるのですよ。
セミリタイアといいますか、サラリーマンをやっていると再雇用になり、経済的にもそれまでのように自由にお金を使えなくなったりしますし、体力的にも厳しくなります。
バーという業態なので、どこかで食事をして二軒目、三軒目に来るお店です。そのためか、60歳を過ぎると急激に来客が減る傾向があります。
ただ、20年前の60代に比べると、今の60代のほうが圧倒的に元気です。
そういった意味では、当初思っていたよりもお店の寿命は長いという実感はあります。


飽きる部分はありますよ。
人気曲の場合は1日に2回も3回もリクエストされたりするわけです。最初の店舗では、自分で現場に出て社長兼店長でDJをやっていました。
例えば、1日2回もレベッカのフレンズなどを聞いていると飽きてきたりもするわけですよ。でもお客さんは好きなので、わーっと盛り上がるんです。そうしたら、そのテンションに合わせなければいけないでしょう?
「これ、なかなかな商売だな」と思うことはありました(笑)。

ただ、よくよく考えたら、シンガーの方、特に一発屋と呼ばれるワン・ヒット・ワンダーの方々は、何十年も、どこへ行っても、その代表曲を歌ってくれと頼まれるわけです。
それに比べたらマシだなと(笑)。
歌わずに、レコードをかけておけばいいわけですし、レコードを1日2回聞いていて飽きたなんて言ったらバチが当たるなと思いました。
そこで自分の心のあり方を立て直しつつやってきた感覚はありますね。
店舗拡大への挑戦とマネジメントの壁


そうですね。
自分が「 商品 」として店に立つというよりは、そのプロダクトが自律自走できるのか、「 歌謡曲というフックで同世代が集まるコミュニティ社交場 」が成り立つのかということを試したかったんです。
加えて、最初から2店舗目、3店舗目を見据えていました。リクルートでの勤務は東京だったので、東京にもお店を持ちたいと思っていました。

でも、まずは自分が現場をやらないと、人に任せるにしても指導もできないし、善悪の基準もわかりません。
とりあえず一通りの事を現場で経験して、2店舗目を福岡の西中洲に出しました。これは炭鉱のカナリアというか、リトマス試験紙というか。実験のようなもので、僕が現場に居なくなってもちゃんと儲かるのかどうかをまず試してみたのです。
その結果、お客さんも西中洲と天神に割れるのですが、新たなお客さんもついてきて、両方とも収支が成り立ちました。
オープンして丸2年経って西中洲を出し、そこから2年間は福岡で2店舗を並行させました。そして、創業して4年で、「 じゃあ、いよいよ東京に出そう 」ということで東京の新橋にお店を出しました。


そうですね。リクルートを退職して、スポットライトを始めたとき、妻と子どもが二人いました。
だから稼がないといけないという気持ちがありました。
リクルートではそれなりの給料をもらっていたので、スポットライト1店舗だけをやっていても、可処分所得は半分以下です。

38歳で起業する前、妻に「 会社を辞めて、俺はスポットライトという歌謡曲を使った同世代社交場をやりたい 」と伝えました。
リクルートの退職金やストックオプションがあったので、持ち株を売ったお金で1店舗目は借金せずにできる計算でした。
だから「 2,000万と2年間を俺にくれ 」と。「 40歳までにうまくいかなかったらサラリーマンに戻ります 」「 やるからには、リクルート時代の可処分所得よりは必ず稼ぎます 」と約束しました。
それを実現しようと思ったら、やはり2店舗ぐらいでは駄目なんです。3店舗は必要で、しかも東京でブレイクさせるところまでやらないと、リクルート時代ほどは稼げないのです。
だから、それは宿命のようなものでしたね。


リクルート時代の可処分所得以上を稼げるようになれるなら、それ以上の拡大は望んでいませんでした。遠隔地に店を出したら、現金や物の管理もありますし、マネジメントは大変です。
バーは現金が飛び交う商売です。
誰を本当に信用して店を預けるか、極めてリスキーです。
大阪や名古屋にマーケットがあるのはわかっているのですが、自分が直営でやるとなると、それなりの体制を作らなければいけません。管理者や統括のような役割を置く体制を作るとなると、10店舗ぐらいは必要になります。
でも、そこまでの拡大は望んでいませんでした。


ええ、1店舗1店舗、そこでうまくいくかどうかを考えました。
大事なのは同世代の秘密基地的な社交バーとして機能するかどうかですから、やはり水ものです。
レコードバーというプロダクトだけで行けると思いきや、店長の力量に大きく左右されることもわかりました。


店長によって客筋も変わりますし、アルバイトのスタッフが入ってくるか、続くかどうかも変わります。
当初は、歌謡曲で同世代を集めるバーというプロダクトがしっかりできていれば、横展開できるかもしれないと思っていましたが、現実は甘くなかったです。


歌謡曲が流れていたら、お客さんは思い出話をされます。
それをどう受け止めるか。店長がその思い出話に興味関心を持てるかどうかが重要です。
お客さんが来店するきっかけは歌謡曲だったりレコードだったりするのですが、結局、常連として根付くかどうかは、その店長のファンになるかどうかです。
「 店長が俺の昔話に対して、世代も若いのにすごく聞いてくれるんだよね 」と感じてもらえるような人間力がないと難しいですね。



僕が一番の店長に決まっていますよ。
僕が現場に出ていたら、一番売り上げを出すに決まっています。

ですが、黒字であれば人に任せたほうが良いと思っています。
働いているスタッフや店長に雇用を生むという価値も大きいですし、その人の人生にとってプラスになる話も聞けるかもしれない。


歴代の店長で年長者は、天神店の店長ですね。彼が昭和49年生まれで、歌謡曲世代を一番わかっています。
その他の店長はだいたい80年代前半生まれです。82年とか81年とかです。今、新橋店の店長は86年生まれです。

彼らも本当に面白いと思って、ハマらないとなかなか長く働き続けられません。でもハマると、それ以外の職場を探すのは無理ですね。
「 もうここが自分の居場所だ 」というような感覚になるので、店長はみんな長く勤めてくれます。新橋の店長も10年以上ですし、天神の店長も15年とかです。


僕はスタッフや店長に「 歌謡曲が好きで働き始める人も多いけれど、歌謡曲が好きなだけであれば、お金を払ってお客様として来てください 」と伝えています。「 歌謡曲を好きな人を好きになれるのであれば、あなたはここで働けます 」と。
歌謡曲を聴いていた10〜20歳上の世代の人たちに世代的な興味があるとか、そういう方たちの昔話を聞くことに興味関心が持てるとかが大事ですね。
昔話を聞いてもらえると、我々の世代は嬉しいんですよ。だから「 あの店長はね、よく話を聞いてくれるし、聞き流しているだけじゃなくてリアクションをしてくれる 」とファンになるわけです。
お店の外でも「 ちょっと休みなので飲みに行きましょう 」というようなお誘いが結構あります。そうなると、店長と客という関係を越えていくのですね。店長にとっても自分の居場所ができます。さらにお客さんから支持されてファンがつくと、承認欲求が満たされて自信もついてきます。
一朝一夕でそんな世界は作れないじゃないですか。だから、一度ハマると、他にもっと魅力的な居場所を作ることがなかなか難しくなるんです。


もちろん独立した人もいます。
ただ、やはりスポットライトで相手にしたお客さんを相手にしたければ、スポットライトで勤め続けることになります。


何年間も上の世代とのコミュニケーションをすることや、「 こうやってお客さんをファンにつけるんだ 」という自信とノウハウを得たら、自分が好きな歌謡曲以外の世界や世代を相手にしてお店をやろうという気持ちになる人もいます。それはそれでいいんじゃないかと思っています。


そうですね。
同業でやろうと思ったら、僕ぐらい歌謡曲に詳しくなるとか、自分で全国を回ってレコードを集めるような苦労をしないとスピリッツは宿りません。
店長は道具等が全部用意されている状態ですから。
「 歌謡曲は儲かるな 」と思ってやろうとしてもいいけれど、「 全部用意された状態でやった人間にはスピリッツが宿らないから、あまりやらないほうがいいと思うよ。別のターゲットやプロダクトで、本当に魂を込めて準備して独立したほうが絶対成功すると思うよ 」とアドバイスしますね。
変わらないことを価値にする「継続」へのシフト


同世代の社交場を作りたくてお店をやっていますから、それを感じるときですかね。
今でもそうですが、沢田研二の「 勝手にしやがれ 」がかかると、見知らぬお客さん同士が何のリハーサルもせず、みんなでサビのところで「 ああぁ〜♪ 」と言いながら揺れているのを見ると、「 これだな 」と思いますよ。
今、いろんなところにインバウンドの人が多いじゃないですか。
海外の人にもシティポップが流行っているとか、昭和の日本の歌が流行っているとか言われています。でも、僕にとっては「 日本人による日本人のための日本の歌の店 」がコンセプトなので、できればあまり外国の人で溢れる場にはしたくないという思いもあります。
外国の人の中にも、文化をわかっている人たちもいます。例えば、福岡の店では、韓国の若い方々が来店されて、日本の若い人たちよりも日本の70〜80年代の歌謡曲をものすごく勉強して詳しく知っていたりします。そういう人たちはもちろんウェルカムなのです。
でも、興味本位で来られるのはごめんなんですね。同世代の居場所づくりがコンセプトですから。
やはり「 勝手にしやがれ 」等はあまり海外の人たちは注目していません。「 ザ・日本のあの時代ならではの一曲 」なので、それをみんなで盛り上がっている姿を見るのが一番嬉しいですね。

新橋の店に警視庁の方がお客さんとして来られました。
僕がオーナーだと伝え、その方と一緒に飲んでいた時に、「 この店はね、素晴らしいほどに右寄りの店だね 」と言われました。
どちらかというと僕らの世代は、歌謡曲というのを左寄りなもの、要するにリベラルなもの、既存の価値観を壊すものとして捉えていました。流行り歌を作る人も歌う人も、既存の価値観を壊すために洋楽っぽくしていったりしたのです。
だから70年代、80年代は極めて左寄りの音楽活動だったはずでした。
でも、30年40年経つと変わるんですね。その警視庁の人が言うには「 もう完全に右寄りの活動なんですよ 」と。


だから、みんなで「 勝手にしやがれ 」を歌っているのは今や左寄りじゃないと。
そういうことをやっているのはもう右寄りの店だと言われて、確かにその通りかもしれないなと思いました。
時代が変われば価値観も変わるし、「 日本人による日本人のための日本の歌の店 」と言ったら、確かに右ですよね(笑)。
警視庁の人から言われて「 面白いなあ 」と思い、じゃあ僕も右寄りの人間と自覚しようと思いましたね。


20年前から、60歳を過ぎるとお金の使い方や時間の使い方が劇的に変わってくるというのはわかっていたので、多分この事業はこのままいくと尻すぼみになると感じています。
ただ一方で、外国の人に80年代のシティポップや日本の音楽がウケているという状況があります。
青木さんたちの世代はまだ全然一周回っていないので、歌謡曲なんて時代遅れなものというイメージかもしれませんが、今は一周回って20代の人たちが「 昭和好き 」になっています。
昭和好きといってもファッションや映画など様々ですが、その中で最大派閥が「 音楽が好き 」という人たちです。その方々がお店に来られています。
ただ、やはり数としてはリアルタイム世代ほど人数はいません。我々バブル世代のようにガンガンお酒を飲むかというと、そうではないですからね。
だからバーという業態では多分続けられないと思っています。

コロナ禍前までは4店舗ありましたけど、コロナ禍で2店舗閉めて、今は新橋と天神だけです。
変わらなければ多分しぼんでいくでしょうね。
でも、「 変わらないことを価値にしよう 」というチャレンジをしているので、変わりようがありません。
コロナで2店舗閉めましたが、それまでは拡大や成長ということが、第一義でした。僕もバブル世代ですし、ビジネスの世界は拡大成長が必須だ、と思っていました。
ですが、コロナを経て、拡大成長に価値を全く見出せなくなりました。

大事なのは「 継続 」です。
いかに長く続けるか。現状はまだ赤字というほどではないので、維持できる間は寸分も変えずにやっていきたいと思っています。


「 落ち着く 」とか「 安らぎ 」というのは、人間みんな懐かしいものに対してそういう感情を抱くじゃないですか。
そういった感情を抱く人達というのは、多分さっき言った昭和49年生まれまでの、教養として歌謡曲を知っている人たちです。

では若い人たちにとっての歌謡曲とは何なのか、何を求めているのか。新鮮さなのか、カルチャー的なバックボーンの蓄積なのか、リアルタイム世代じゃないとネットで検索しても出てこないような生の知識や感覚なのか。
日本の若い人たちにこのカルチャーを伝承していく、その入り口としての歌謡曲レコードバーの存在意義を探っていきたいですね。
当時の熱狂の伝承と「アレンジ」の重要性


そうですね。文化の伝承という面でも、やはりまずは資源を眠らせないためにも、もろもろの権利関係の話を含め、どうにか整理してほしいと思っています。


僕はスポットライトで「 レコードの音源を聴く 」ことにこだわっています。
これがなぜ重要かというと、当時のアレンジ、つまり編曲が残っているからです。曲というのは、詞とメロディーと編曲、サウンドが一緒になって一つの作品が成り立っているわけです。詞よりも作曲よりも編曲、つまり「 イントロがこんな感じで 」とか。
80年代半ばぐらいまでは、サウンドが打ち込みではなく、みんな人力で演奏していた時代の音ですね。だからこそ、あのサウンドは懐かしいんです。詞は残っていくし、メロディーも残ります。
でも、ボサノバ風にアレンジされたり、アコースティックな感じにアレンジされて残っていくことも多いでしょう?
僕はレコードが好きなので、レコードで当時のアレンジを聞いてほしいんですよ。だから、レコードをかけるということにこだわっていきたいです。

今、著作権の法改正が進んでいて、シンガーや編曲家の方にもきちんと著作権料が入るような仕組みに変えようとしています。
僕は大賛成です。
レコードをかけるスポットライトのような店は、音楽を使用する著作権料を支払っているのに、それが編曲家さんにお金が入っていないというのは納得いきません。


そうですね。
青木さんもスポットライトに来ていただきましたし、昭和びと秘密基地の企画サポートとして、例えば、佐野元春さんのプレイリストなどを作っていただきました。
青木さんは世代ではなかったので、佐野元春という名前と「 約束の橋 」くらいは知っていた、という感じだったかもしれませんが、向き合ってみたら、「 Someday 」がいいなとか「 So Young 」がいいなとか思いましたよね?


今はいろいろな音楽ジャンルに、国籍も時代も問わずアクセスできるので、逆に色々ありすぎて触れていない人もいるのだろうなと思うんです。
だから、青木さんみたいな方も含めて、いろんな方にも触れてほしいですね。
青木さんのように何にも毒されていない方に、新たな音楽との出会いで想像力や好奇心を掻き立てられるような曲が、この国の70年代、80年代にはいっぱい眠っているのですよ。
でもここ10年くらいは、日本の人よりも海外の人のほうが、それに気付いているというのが現状です。


昭和の流行り歌はもう仕事にしてしまったので、ピュアに聞けなくなっている部分はあります。
だからピュアに聞こうと思ったら、普段店には置いていないレコードを聴いたりしますね。マニアックなものには、「 こんなものも眠っていたのか 」とか、「 全然知らなかったけれど素晴らしい 」とか、「 このアルバムが1982年に出ていたのか 」というような発見が、僕にもあります。
そういうものを集めて、趣味の「 裏歌謡曲ナイト 」というイベントで日の目を見させるようにしています。知らない楽曲がいっぱいあるので、自分のストックとして趣味で集めているわけではなく、皆さんに披露したいのですよ。
「 これ(レコード)が65,000円もするんだよ 」とかけながら、喧々諤々語り合うようなイベントを、今週日曜日にカフェでやります。

それとは別に、「 昭和びと秘密基地 」の活動として、リアルのコミュニティで仲間を集めてやりたいと思っています。
ぜひこの番組を観られた方で、僕や青木さんとリアルで話したい方は、年末に博多でイベントをやる予定ですのでぜひチェックしてください。チェックするためには、昭和びと秘密基地の公式LINEへの登録をお願いします。




日本のカルチャーを若い世代に引き継いでいきたいと思ってスポットライトをやっています。
「 我々だけの世代の遺産として終わらせたくない 」というような意味合いです。

そういうまとめでどうでしょう(笑)



ゲストプロフィール

安東 暢昭(あんどう のぶあき)氏
歌謡曲BARスポットライト天神オーナー / DJ / 昭和びと秘密基地事務局
1968年生まれ、福岡市南区出身。県立筑紫丘高校、九州大学機械工学科卒業。
リクルート社に入社後、2007年に歌謡曲BARスポットライト天神を起業。
その後、福岡・東京で4店舗まで出店、コロナ禍により2店舗閉店、2026年に新橋店事業承継。
現在は天神本店の経営とスポットライトブランドのマネジメント、昭和びと秘密基地事務局に取り組んでいる。
〜 第55回目の「いろいろTV」を終えた青木の振り返り 〜
昭和歌謡曲BARスポットライトのオーナーの安東さんをゲストにお迎えした55回目のいろいろTVは、初めての対面トークでした!
安東さんから対面をリクエストいただいた時はどうなるんだろう(笑)と思っていましたが、いつものオンライン配信とはまた違う、良い意味で脱線の多い(笑)、新しい『いろいろTV』の形ができました!
安東さんとは、同じ小学校の出身という共通点があり、10歳年上という良い意味で良い距離のある背中を見せていただける人生の先輩で、お酒の力も借りて、いろいろな話を聞くことができました。
特に印象に残ったのは、「拡大ではなく継続」というお話で、20年近く事業を続けている安東さんの思想がつまった言葉で、いろいろ社の事業のことを考える良い視点をいただけました。
事業を大きくすることだけが成長ではなく、誰かが安心して集まって話ができる場所を続けることに大きな価値があり、長く続く場所には人のつながりや記憶が積み重なっているのだと感じました。
スポットライトから、どのような新しい「世代遺産」が生まれていくのか、とても楽しみになりました!
